三輪 英男(みわ ひでお)
私は、子どもの頃は吃音があり、人前では話すことが得意ではありませんでした。野球は好きでしたが、どちらかというと、おとなしく、控えめな子どもだったと思います。
認知症と診断された当初は、「どうして自分が」という気持ちで、これからどうなるのか、不安でいっぱいでしたが、同じ認知症の人たちとの出会いにより「認知症になっても人生は続く。決してひとりではない」と思うようになり、講演活動などを通して「これでいいんだ」と確信を持てるようになりました。
今は、どんどん外に出る機会があり、話すのが得意でない人の代弁者になりたい、認知症の真髄を突き詰めたいという気持ちです。
地元集落に休耕田が増えたことでいろいろな人とあれこれ相談しています。
認知症の本人と家族の交流の場「にっこりの会」で毎年春に行くフラワーパーク「花回廊」にて。
毎週火曜日に行く米子市の「オレンジカフェ わだや小路」の仲間たちが私の元気の源です。
2025年 3月20日認知症のイメージを変えるフォーラム「認知症の人と共に創る地域共生社会」で公開したインタビュー動画です。
2025年11月9日、1泊リフレッシュ交流会で十八番の東北民謡を歌い上げました。
ー苦手を「強み」に変えた、東京時代。レコード店勤務の妻と仕事で知り合い結婚
小学校時代は足が速く、野球をやっていました。しかし、子どもの頃は吃音があり、人前で話すことが得意ではありませんでした。自分でもすごく気にしていて、引っ込み思案な性格でした。
東京で暮らすようになって、スキーやボウリングなどにも積極的に取り組み、会計事務所の仕事を通じて多くの人と話す経験を重ねていきました。吃音だった私は、うまく言葉で伝えることのできない人の気持ちが判ります。
この時期に培った人と深く向き合い、関係を築く力こそが、その後の人生を支えるかけがえのない財産になったと感じています。
仕事先のレコード店で勤めていた妻と出会ったのもこの頃です。お互いのことを東京出身者だと勘違いしていたのを覚えています。
ー江府町で新しい生活を始める。 PTA活動から町議会議員へ
今から40年ほど前、妻の父親が病気になったことから、妻の故郷である江府町で家族とともに新しい生活を始めることになりました。移り住んだ際にまず考えたことは、「地域に馴染むためにどうしたらいいか」ということでした。そこで私が実践したのが、子どもを通じて自分から地域の人たちとかかわっていくことでした。
そのきっかけとなったのがPTA活動です。活動に積極的に参加するうちに、やがて小学校のPTA会長を務めることになりました。学校新聞を創刊し校旗も作りました。もともと体を動かすことが好きで、地域でも野球などを仲間と楽しんだりしました。
こうしたPTA活動を通じた地域とのかかわりが広がり、2012年より町会議員として活動することになりました。

町会議員として議会で発言
ー自分の車をどこに停めたのか分からなくなり、相談、そして受診・診断
議員として活動していた2022年の冬、思いがけないできごとがありました。庁舎の駐車場で、自分の車をどこに停めたのか分からなくなってしまったのです。
その様子を心配した職員の方に勧められ、妻と一緒に地域包括支援センターへ相談、町の診療所から紹介され鳥取県基幹型認知症疾患医療センター鳥取大学医学部附属病院で診てもらい、2023年4月、77歳でアルツハイマー病と診断されました。
診断を受けたときには、「まさか自分が」という戸惑いと「これからどうなる」という不安でいっぱいでした。また、交通安全指導員の役目を持っていましたので、運転免許証を返納しました。
ー「おれんじドア」に参加しました。認知症であることを公表
診断を受けてから4か月経った頃に「おれんじドアどまんなか」に参加してみました。同じ認知症の人たちと楽しく、笑って話せ、初めてなのにすぐに打ち解けられて、元気をもらいました。
私は、議員として活動していたからこそ、自分を信頼してくださっている地域の方々に対して、病気を隠そうとは思いませんでした。自分の状況を正直に伝えたい。そう考えていました。
2023年10月、鳥取県の「おれんじドア」を紹介したいという全国紙の企画で、最近参加した私へインタビューの依頼があったことから、自ら認知症であることを公表する決意をしました。そして、議員も辞めないで活動を続けることにしました。

現在は「おれんじドア」でピアサポーターとして活動しています
ー妻とともに踏み出した新たな一歩
一方で、突然の診断に戸惑ったのは妻も同じだったと思います。妻は、地域の人たちと自分たちで作った野菜と特産物を販売するお店を立ち上げ、責任ある役割を持っていたこともあり、毎日が忙しく、私の認知症の診断についても、最初の頃は受け入れることが難しく、「家族の会」へ足を運ぶこともできない時期が続きました。
認知症であることを公表したことで、心無い言葉は妻の耳にも届いていたそうです。しかし周囲の方々が変わらず接してくれたこともあり、勇気を出して「家族の会」に参加してくれました。同じ「当事者の家族」という立場の方々と出会い、お話が出来たことで少しずつ気持ちの変化があったようです。
後から聞いた話ですが、ここで出会ったご家族の言葉に支えられながら、少しずつ現実と向き合えるようになったそうです。
そうして妻もまた、自分たちの店を続けながら、私とともに新たな一歩を踏み出してくれました。

江府町の住民向け講座で妻とともに講師をつとめました
ー今も地域の一員として
議員を2024年の満期まで勤め切ったあとも、地元神社の総代表、森林組合の理事、JA年金友の会会長など、みなさんが私に「みなさんの声を届ける役割」を与えてくれました。
現在は、江美の会やデイサービスに通いながら、地域の活動やボランティアにも参加しています。また、毎朝のラジオ体操も欠かしません。身体を動かし、人と出会い、役割を持ちながら地域の中で暮らす。そうした日常は、今も私の暮らしの中心にあります。
振り返ってみると、私の人生は人とのつながりに支えられてきました。地域の仲間、PTA活動を通じて出会った仲間、議員時代に支えてくださった方々、そして、認知症になってから新たに出会った仲間たち。その一つひとつの出会いが、今の私を支えてくれています。
その時々で出会った仲間や積み重ねてきた経験は、今の私にとって大きな力になっています。これからも周りの人たちへの感謝を忘れず、人とのつながりを大切にしながら、できることを続けていきたいと思っています。
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