だいじな、今を生きる

〜 忘れることがあっても、わらって暮らす鳥取県の仲間たち 〜

自分の思いをうまく言葉にできない人の代弁者になりたい

三輪 英男(みわ ひでお)

三輪さん
三輪さん
三輪さん

プロフィール

住まい
江府町
診断を受けた年
2023年4月(77歳の時)
地域の活動
神社の総代長、森林組合理事、
JA年金友の会会長

私は、子どもの頃は吃音があり、人前では話すことが得意ではありませんでした。野球は好きでしたが、どちらかというと、おとなしく、控えめな子どもだったと思います。

認知症と診断された当初は、「どうして自分が」という気持ちで、これからどうなるのか、不安でいっぱいでしたが、同じ認知症の人たちとの出会いにより「認知症になっても人生は続く。決してひとりではない」と思うようになり、講演活動などを通して「これでいいんだ」と確信を持てるようになりました。

今は、どんどん外に出る機会があり、話すのが得意でない人の代弁者になりたい、認知症の真髄を突き詰めたいという気持ちです。

私の日常

2025年 3月20日認知症のイメージを変えるフォーラム「認知症の人と共に創る地域共生社会」で公開したインタビュー動画です。

2025年11月9日、1泊リフレッシュ交流会で十八番の東北民謡を歌い上げました。

私のこれまでの歩み〜出会いを⼒に〜

人生史

ー苦手を「強み」に変えた、東京時代。レコード店勤務の妻と仕事で知り合い結婚

小学校時代は足が速く、野球をやっていました。しかし、子どもの頃は吃音があり、人前で話すことが得意ではありませんでした。自分でもすごく気にしていて、引っ込み思案な性格でした。

東京で暮らすようになって、スキーやボウリングなどにも積極的に取り組み、会計事務所の仕事を通じて多くの人と話す経験を重ねていきました。吃音だった私は、うまく言葉で伝えることのできない人の気持ちが判ります。

この時期に培った人と深く向き合い、関係を築く力こそが、その後の人生を支えるかけがえのない財産になったと感じています。

仕事先のレコード店で勤めていた妻と出会ったのもこの頃です。お互いのことを東京出身者だと勘違いしていたのを覚えています。

ー江府町で新しい生活を始める。 PTA活動から町議会議員へ

今から40年ほど前、妻の父親が病気になったことから、妻の故郷である江府町で家族とともに新しい生活を始めることになりました。移り住んだ際にまず考えたことは、「地域に馴染むためにどうしたらいいか」ということでした。そこで私が実践したのが、子どもを通じて自分から地域の人たちとかかわっていくことでした。

そのきっかけとなったのがPTA活動です。活動に積極的に参加するうちに、やがて小学校のPTA会長を務めることになりました。学校新聞を創刊し校旗も作りました。もともと体を動かすことが好きで、地域でも野球などを仲間と楽しんだりしました。

こうしたPTA活動を通じた地域とのかかわりが広がり、2012年より町会議員として活動することになりました。

PTA時代の友人と再会した時の一枚

町会議員として議会で発言

ー自分の車をどこに停めたのか分からなくなり、相談、そして受診・診断

議員として活動していた2022年の冬、思いがけないできごとがありました。庁舎の駐車場で、自分の車をどこに停めたのか分からなくなってしまったのです。

その様子を心配した職員の方に勧められ、妻と一緒に地域包括支援センターへ相談、町の診療所から紹介され鳥取県基幹型認知症疾患医療センター鳥取大学医学部附属病院で診てもらい、2023年4月、77歳でアルツハイマー病と診断されました。

診断を受けたときには、「まさか自分が」という戸惑いと「これからどうなる」という不安でいっぱいでした。また、交通安全指導員の役目を持っていましたので、運転免許証を返納しました。

ー「おれんじドア」に参加しました。認知症であることを公表

診断を受けてから4か月経った頃に「おれんじドアどまんなか」に参加してみました。同じ認知症の人たちと楽しく、笑って話せ、初めてなのにすぐに打ち解けられて、元気をもらいました。

私は、議員として活動していたからこそ、自分を信頼してくださっている地域の方々に対して、病気を隠そうとは思いませんでした。自分の状況を正直に伝えたい。そう考えていました。

2023年10月、鳥取県の「おれんじドア」を紹介したいという全国紙の企画で、最近参加した私へインタビューの依頼があったことから、自ら認知症であることを公表する決意をしました。そして、議員も辞めないで活動を続けることにしました。

「おれんじドアひのぐん in 日南町」に参加した帰りに、妻とバラ園へ

現在は「おれんじドア」でピアサポーターとして活動しています

ー妻とともに踏み出した新たな一歩

一方で、突然の診断に戸惑ったのは妻も同じだったと思います。妻は、地域の人たちと自分たちで作った野菜と特産物を販売するお店を立ち上げ、責任ある役割を持っていたこともあり、毎日が忙しく、私の認知症の診断についても、最初の頃は受け入れることが難しく、「家族の会」へ足を運ぶこともできない時期が続きました。

認知症であることを公表したことで、心無い言葉は妻の耳にも届いていたそうです。しかし周囲の方々が変わらず接してくれたこともあり、勇気を出して「家族の会」に参加してくれました。同じ「当事者の家族」という立場の方々と出会い、お話が出来たことで少しずつ気持ちの変化があったようです。

後から聞いた話ですが、ここで出会ったご家族の言葉に支えられながら、少しずつ現実と向き合えるようになったそうです。

そうして妻もまた、自分たちの店を続けながら、私とともに新たな一歩を踏み出してくれました。

「おれんじドアひのぐん in 日南町」に参加した帰りに、妻とバラ園へ

江府町の住民向け講座で妻とともに講師をつとめました

ー今も地域の一員として

議員を2024年の満期まで勤め切ったあとも、地元神社の総代表、森林組合の理事、JA年金友の会会長など、みなさんが私に「みなさんの声を届ける役割」を与えてくれました。

現在は、江美の会やデイサービスに通いながら、地域の活動やボランティアにも参加しています。また、毎朝のラジオ体操も欠かしません。身体を動かし、人と出会い、役割を持ちながら地域の中で暮らす。そうした日常は、今も私の暮らしの中心にあります。

振り返ってみると、私の人生は人とのつながりに支えられてきました。地域の仲間、PTA活動を通じて出会った仲間、議員時代に支えてくださった方々、そして、認知症になってから新たに出会った仲間たち。その一つひとつの出会いが、今の私を支えてくれています。

その時々で出会った仲間や積み重ねてきた経験は、今の私にとって大きな力になっています。これからも周りの人たちへの感謝を忘れず、人とのつながりを大切にしながら、できることを続けていきたいと思っています。

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私からみなさんへ

認知症になってから、いろいろな人と出会い、さまざまな話を聞く機会がありました。
その中で私が感じたのは、支えになることを教えてもらうことの大切さです。自分が知らなかったことでも、「こういう方法がありますよ」「こういう考え方もありますよ」と教えてもらうことで、新しい気づきにつながることがあります。

同じ仲間と話すうちに、私は「自分の将来はまだまだこれからも続いていく」と思えるようになりました。妻もまた、同じ立場の方々と出会う中で「自分だけで考えていたときには見えなかったものが見えるようになった」と言っています。

診断を受けた当初は、私も強い戸惑いと不安の中にいました。 しかし、仲間と出会い、語り合うことで少しずつ前を向くことができ、「認知症になったからといって、人生が終わるわけではない」と実感しました。 もし今、不安や悩みを抱えているなら、どうかひとりで抱え込まないでください。

現在、私自身、「おれんじドア」「本人ミーティング」「にっこりの会」などに参加し、仲間との交流を続け、ピアサポーターとして活動しています。新しい出会いや、学びを通じて、認知症で悩んでいる方に少しでも救いになれればと思っています。

私も頑張ります。みなさんにも、自分らしく過ごせる場所や人との出会いがあることを願っています。みんなで頑張りましょう。

鳥取県のピアサポーターとして活動しています

  • 「認知症ケアパス」について考えるワークショップに参加。

  • 鳥取大学学生とのプロジェクトで、井上さんと妻と大学へ。

  • 米子市に出かけて仲間たちと一緒にそば打ち初体験。

三輪 英男さんにお会いしたい方はこちら